「ぼくらは、まだ少し期待している」木地雅映子

 

 

 

期待と希望は違う。

 

希望は、マクロ

期待は、ミクロ。

 

つらいことがあって

理不尽なことがあって

自分の力ではどうしようもない環境に置かれ

生きていくのに困難を抱えているとき

 

希望を持つことが大事

希望を捨てないこと、、

なんて簡単に言うけれど

そんなことができる人間は、ほんの一握りではないだろうか。

 

それでは、絶望の淵に立たされた人間は

希望をもつことができなければ

生きていけないのか、、と考えたら

そういうことはない。。

それでも、私たちは生きている。

 

それは、

過酷な状況でも

希望を持てるような強い人間でなくとも

ふつうの人間は、本能的に

目の前の人に、目の前のことに

知らず知らずのうちに「期待」してしまうからではないのか。

 

人生相談や、お悩み本などで

人に期待するから、自分が苦しむ。

だから、期待しないこと。。

などというフレーズを目にしたことがある。

 

その理屈は、頭ではとってもわかるが

そんな合理的なふるまいは、凡人の私などとてもできない。

気づけば、やっぱり、誰かに、何かに期待してしまう。

 

それを逆に考えてみよう。

頭ではわかっていても、実践できないということは

それは、理性ではなく、本能なのだ。

 

「期待」することを本能だと考えれば

期待することは、人間が生きていくうえで

必要不可欠ということになる。

 

さて、本著は、子ども虐待をテーマに物語が進んでいく。

暗く重々しく、つらい気持ちになりがちなテーマだが

本著は、これまで読んだ類似テーマの他の小説とは全く違った印象を受けた。

 

それは、虐待を受けた、受けているこどもたちが

それに向き合っていく過程で

絶望から希望にまっすぐたどり着く、ステレオタイプな物語ではなく

「期待」することにより弊害を受けながらも

行きつ戻りつし、少しずつ前進していく物語だったからだ。

 

裏切られても裏切られても

人間は、どうしようもなく期待する。

実は、そこからしか、本物の希望は生まれないのかもしれない。